初代太平橋架橋碑(太平橋向田側、ポケットパーク)
阿蘇鉄矢という人物は、薩摩川内市平佐町出身の大工でした。
父は平佐北郷家に仕えており、鉄矢は1801年8月12日に生まれました。子供のころから器用で、鳥かごなどを作っており「神童」と言われていたそうです。
(以下、年号から1引けばその当時のおおよその年齢になります。)
1820年になると、大工をこころざし鹿児島へ修行に出ます。1835年には薩摩藩の大工頭として大抜擢され、1840年には鹿児島市の五大石橋を岩永三五郎(肥後の石工)と共同で架橋します。 その後新田神社の工事や高江町・八間川に架かる江ノ口橋の架橋など、三五郎と共に多くの工事に携わりました。
1854年になると鉄矢の名前が多くの人に知られる出来事が起きます。
4月に京都御所炎上・10月に江戸で大地震が起き、江戸城・高輪薩摩藩邸が大損害を受けました。その時鉄矢は10数名の大工を連れて江戸へ向かい、他藩に先駆けてあっという間に工事を終えてしまったというのです。その技量は江戸中で評判となり、水戸藩の仲介で京都御所の造営工事も委嘱されました。
その後鹿児島へ戻ると、1860年に天辰三堂川石橋の架橋に携わったのを最後に、大工としての一線を引退したといいます。
そして、世は明治を迎えます。
時の初代県令大山綱良は、県の発展のためにはインフラ整備を急務と考え、不便であった川内川に架橋する事を提案します。
川内川は川幅も広く水深も深いため、当初「架橋は難しい」との意見もありました。しかし、県令はこれを決断し、架橋責任者に、鉄矢を抜擢したのです。
架橋工事は、1874年11月2日に着工し、翌1875年の1月12日に竣工。
およそ2ヵ月半で初代「太平橋」は見事に完成しました。
架橋碑を読み解くと、当時の人々の歓喜が伝わって来ます。
”完成した橋は、巨大にして頑丈なるものであり、
渡る者は、まるで道のごとく安心して大河を越えることができるのである。
それまでの苦難も今は全て昔の事となり、民衆はその利便に頼るようになった。”
――――初代太平橋架橋碑より抜粋(意訳)
そして、初代太平橋架橋から2年後の1877年。
西南戦争が勃発します。
初代太平橋はその戦火に巻き込まれ、中央部分が消失してしまいました。初代太平橋架橋碑には弾痕があり、当時起きた戦の様子を物語っています。
平和を願って「太平」と命名された橋。戦によって変わり果てた姿を見た鉄矢や工事関係者、当時の川内の人々はどのような思いでいたのでしょう。
1886年、大工としてたくさんの人々の願いを形にしてきた鉄矢は、85歳で永眠します。
阿蘇鉄矢の墓(平佐町)
鉄矢は勤勉で清廉な人であったと記録にあるそうです。おそらく、多くの人に慕われる素晴らしい人であったと思われます。
現在、私たちが使っている太平橋は6代目。初代の鉄矢から大切に受け継がれて来ました。
姿・形は違えど、代々人々に愛されて来ている橋であることに変わりありません。薩摩川内市が誇る大河・川内川に架かるるこの橋は、間違いなく市の姿を象徴するシンボルです。鉄矢の人々を想う気持ちは、今の私たちに届いています。