アーカイブ

女子マラソン黎明期に輝いたランナー、外園イチ子さん(1)

薩摩川内市を流れる川内川。朝な夕なに、犬の散歩やジョギングをする人々が行き交う。冬場は特に、川霧を背に駆け抜けていくランナーの姿も多く見かける。今では駅伝、マラソンと、男女ともに多くの大会が開催されているが、ほんの50年前は女性が長距離を走ること自体、珍しいことだった。そんな時代に、この川内の地に生まれ育ち、「走る女性」の先駆けとなった人がいる。外園イチ子さん。1978年、日本で初めて開催された女性だけのフルマラソン大会「多摩湖女子マラソン大会」の記念すべき初優勝者である。

イチ子さんは1941年、川内市大小路(現在の大王町)に生まれた。可愛小学校、川内北中学校に通い、「小中学生のころは、お昼休みといったら校庭に出て駆け回っていましたね」と懐かしげにほほ笑む。川内高校に進み、卒業後は川内で電電公社(当時)に就職、2年勤めたのち、同郷のご主人との結婚を機に上京した。二人のお子さんに恵まれ、ご自身も仕事を続けながら、東京・神奈川にて過ごす。時は高度成長期、都市郊外には真新しい集合住宅が立ち並び始めていた。イチ子さんもそんな団地暮らしの主婦のひとりだったという。

近所の奥様たちと茶話会(写真左がイチ子さん)

きっかけは、ご主人だった。ご主人の趣味はランニング。共に川内高校出身の二人にとって「川内高校開校記念マラソン」は共通の思い出。高校時代はソフトテニス部に所属していたものの、「大きな大会があるわけでもなく、ハードな練習なんてしてなかったですよ」とイチ子さん。ほぼぶっつけ本番の走りながら、1年生の時6位、2年生で2位、3年生で3位と毎年上位でゴールしていた。それを知るご主人は「高校時代、そんなに早かったのなら、走ってみたら?」とイチ子さんに何度もハッパをかけたという。

「おしゃれなウェアなんてないころ。娘の体操着を着て走ってました」

毎日走り、練習を重ねては大会に参加する夫を横目に、「走ってみたら?」というご主人の声をやり過ごしていたイチ子さんだったが、ついに根負けして地元「横浜市民ロードレース」への参加を決める。この時、イチ子さん33歳。「あのころの体力が今、どれくらい残っているかしら…」。そんな気持ちで、ほとんど練習もせず3キロのレースを走った。結果は5位。予想もしなかった好成績に「練習したら、もっと早く走れるかも」という思いが浮かんだ。イチ子さんに潜んでいた、走ることへの情熱に火が灯った瞬間であった。

市民ランナーも参加できる大会の端緒となった青梅マラソン

レース中のイチ子さん。沿道からの声がよく耳に届いたという。

1975年の青梅マラソン10キロを皮切りに、市民ランナーとしてレースに参加し始める。78年の青梅マラソン30キロで優勝、翌79年には連覇を果たす。そのころには、群馬大学教授(当時)で、市民ランニングの指導に尽力していた山西哲郎氏のアドバイスを受けながら、毎日のランニングや食事コントロールなど、レースに向けたトレーニングも開始した。「レースに出ていても、人前に出るのは苦手な性格で。練習も人目につかないよう、早朝に走っていました。季節によっては夜も明けないうちから。そのころは走るのがもう、楽しみで楽しみで。あー、今日も元気で走れた!と。一日を終えて床に就く時には、早く朝にならないかな、って思っていました」。家事、仕事、レースとフル回転の充実した日々であった。